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新元号が発表されました!

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元号

「令和」のほか「英弘」(えいこう)「広至」(こうし)「久化」(きゅうか)「万和」(ばんな)「万保」(ばんぽう)

元号「令和」の典拠

「出展は万葉集」巻五、梅花の歌三十二首并せて序 初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

・意味  初春の令月(れいげつ)にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす

 

万葉集関連書籍

   

 

それにしても「令和」「令和」と聞いていると東大阪市民の僕としては「永和」を連想してしまう。。元号の「永和」ではないです😅

改めて見るととてもいい組み合わせの漢字。とか思いながらこの地名「永和」について色々と調べてみました。

「永和」

 明治につけられた地名だが「永和」を「ながにご」と読んだ。この「ながにご」には深いいわれがあり永和に人たちの願いが込められていた。江戸時代には横沼、長堂、三ノ瀬が荒川村に属していたが、明治になり一つの村として独立したいという希望があり、ときの堺県令税所篤(さいしょうあつし)はこの要望を入れて荒川村から分離して一村とし、永久に平和であるようにと、「永和」と名付けた上、読み方を「ながにご」とした。しかし、長堂は東足代村に、三ノ瀬は荒川村に合併し、「なごにご」は旧横沼だけになった。「なごにご」は永和(えいわ)にに変わった。

参照サイト:「東大阪の地名といわれ」

 

「永和の歴史」

・江戸時代から続いた「もめ事」が一件落着

 お話は江戸時代にさかのぼります。天保の頃といいますから今から170年ほど前になります。このあたりでは荒川村が大きな村だったそうで、三ノ瀬、長堂、横沼といった枝郷(しごう)を従えていました。枝郷なんて言葉は今日では死語(つまらぬ洒落)でしょうが、子分格の村というような意味でしょうか。正式には荒川村三ノ瀬分、長堂分、横沼分という名で記録されています。いつの時代にも他人の子分というのはおもしろくないようでして、天保年間から幾度となく「お上」に対し独立分村の請い願いが出されていました。荒川村の内部では独立を巡ってかれこれ30年以上も「いさかい」が続いていたそうです。
そのうちに明治維新で世の中が変わってもまだ、もめ続けていました。
 ところで明治の初期の廃藩置県は試行錯誤の繰り返しだったらしく、一時このあたりは堺県の管轄でした。現在の大阪府奈良県の北部まで含めた大きな県だったそうです。
 その堺県の、ときの県令(今の知事さんですな)は「税所 篤」というお方で、この方の英断で長らく続いた三村のもめ事が一件落着しました。明治6年11月27日のおふれによって三ノ瀬村、長堂村、横沼村の三村が、めでたく荒川村から独立したのでありました。

 

・永和(ながにご)村の誕生
 この税所さんはなかなか粋なお方のようで、この三村独立の際に横沼村の北部の集落を新たに一村として興すよう命じられました。その命名がふるっていました。「村どうしが長い間いがみ合っていたことは水に流して、これからは永く平和に暮らしなさいよ」という願いを込めて、新しい村の名を永和(ながにご)村と名付けはったんです。これが永和のはじまりです。(駅前に名付け親の税所さんの銅像でも建てなあきまへんな。)その後は布施村に合併されて字名として名を残すことになります。

 

・ひとの道がやってきた
 大正3年には大阪電気軌道(大軌とよんでた今の近鉄です)の路線が永和村の北の端を通りましたが、そのころにはまだ駅もなく旧街道沿いの集落のまわりにのどかな田園が広がっている田舎でした。もともと鉄道の目的が奈良や菖蒲池などへの観光客の輸送をねらったものでしたから今のようにいくつも駅が出来るのはずっと後のことです。
 この永和が一躍脚光を浴びるのは、昭和初年に大発展を遂げた新興宗教の「ひとのみち」(今のPL教団)が、この地に本部を置いたことでした。昭和3年3月のことでした。
 昭和9年には、大阪軌道の線路沿いに鉄筋コンクリート造の巨大な本殿が建設されます。千畳敷の大広間や日本一の大食堂を擁する本殿の外、寄宿舎、小学校、幹部の住宅が建ち並び、参拝者は毎日数百名を数えたと言いますからすごい賑わいですなア。
 このため、大軌は昭和11年に布施と小阪の間に「人ノ道」駅を作りました。で、毎日早朝だけ参詣者のために改札業務をすることになりました。8月1日のことです。これが現在の永和駅の前身です。
 公称信者数が100万人、警察調べでも80万人の信者を擁する教団の総本山として賑わった永和ですが、昭和12年4月5日教祖御木徳一が不敬罪で起訴され、幹部十数人が検挙されるという事件が起こります。そして、同月12日には「公安を害し風紀を紊乱するおそれがあり、安寧秩序を保持するため」てな難しい理由で解散を命じられました。解散させられてなかったら今頃PLの花火は永和の夜空に上がっていたかも知れませんな。

参照サイト:「永和の歴史」

 

 

 

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